仏海上人について

仏海上人について

仏海上人の肖像画

仏海上人は、俗姓近藤庄次郎といい、文政11年(1828年)村上市安良町に生まれました。

弘化元年(1844年)16歳の時、湯殿山注連寺に入門。

2年後には本明寺に弟子入りし、その後同寺に元治元年(1864年)までの15年間居住しました。

文久2年(1862年)より木食行に入り、元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)までの3年間、湯殿山仙人沢に山籠し、水行・滝壺の座禅など厳寒、酷暑、昼夜の別なく生涯最大の荒行を行いました。

下山の後、村上の観音寺住職や湯殿山の注連寺住職となり、村上・庄内地方の布教に専念しました。その間、加持祈祷は言うまでもなく、信徒から供えられる祈祷料や布施などで、十輪寺・観音寺・本明寺ほか多くの神社仏閣の再興に努め、貧民救済にもしばしば金銭や穀物を寄付しました。

これらの功績をたたえ、新潟県知事から感謝状・賞状が7回も贈られています。


観音寺裏の小さな丘にある仏海上人の入定墓

明治36年(1903年)3月20日、76歳で観音寺裏に塚を築いて入定。

座禅をしたままの姿で永眠、この時、死後3年後に展墓をするように遺言がありましが、明治初年に発布された墳墓発掘禁止令のため掘り起こすことが出来ずにいました。

昭和36年(1961年)7月にようやく入定墓が村上市教育委員会と日本ミイラ研究グループの手によって発掘調査されました。

仏海上人は、日本最後のミイラ志願者であり、入定墓が発掘調査されたのは日本で初めての事例です。

仏海上人は仏堂に安置されており、どなたでも参拝いただけます。


入定した木棺
お寺にはゆかりの品が残されています
村上市安良町の誕生地記念碑

即身仏とは

即身仏(ミイラ)とは、苦行の後に自らの原型を保ったまま亡骸になって人々の救済を祈り続ける生き仏です。

仏教にはお釈迦様の没後、56億7000万年後に弥勒菩薩が地上に現れて衆生を救うまで地上に姿を残しておこうという思想が有ります。

弘法大師が高野山で即身仏となったといわれていて、これにあやかる為に真言宗では即身仏となる修行が行われました。

即身仏になるためには厳寒・酷暑・昼夜を問わない長く厳しい修行があり、体が死後の保存に耐えるように、肉食はもちろん、米・豆などの五穀を断って脂肪を避け、野菜・木の芽・草のみで命を繋ぐ木食行が行われました。
また、防腐剤として毎日漆を飲んだといわれています。

仏海上人の逸話

仏海上人と盗賊

ある寒い夜、上人が静かに読経をしている時、居間のとなりの仏前へ盗賊が忍び込みました。

賊が賽銭箱の金を持って逃げようとすると上人が呼び止めました。

「それではお金が少なすぎる。これを持って行きなさい。」

そう言って上人は銀貨、銅貨の入っている包を投げ与え、今後こんな人の道に外れたことをしないよう戒めて帰しました。

理ではなく徳をもって人を導いた上人の人柄を伝えるお話です。

不思議な眼力

真言秘密の法を体得された上人は神通力のような不思議な眼力を持っていました。

ある農家の老婆が、山から採った自然薯の中から5本だけ上人に差し上げようと包んでいると、嫁さんが3本で良いと言い争いになりました。

上人は五穀を断って木食をされているので、お婆さんはやはり自然薯を5本持って行きました。

すると上人が言われました。
「お婆さん、有り難いことだがその芋は3本で良い。それが一番功徳になるのだから2本は持って帰って下さい。」

山から採れた芋だからと、お婆さんが何度言ってもついに受け取りませんでした。

何事もお見通しの上人に、お婆さんは一層信仰を深めたといいます。