観音堂



観音堂には御本尊である千手観音菩薩を安置しています。
宝永3年(1706年)隣接する法顕寺の火災で類焼により焼失、その後宝永7年(1710年)に以前に村上を治め観音寺に信仰の厚かった奥州白河の松平家の寄進によって白河の欅材などを使って再建されました。
現在の観音堂は昭和27年に改修された際に、茅葺屋根の維持が困難であるために拝殿が解体されて規模が小さくなっていますが、金箔押しの丸柱などが往時の面影を残しています。
年に一度、10月の17日と18日の大祭日には厨子の御開扉が行われますので、一般の皆様もぜひご参拝ください。
観音堂は令和元年7月に村上市の歴史的風致形成建造物に指定されました。
仏海上人入定墓
庫裏と観音堂の間の小道を通って行くと、小さな塚の上に仏海上人の入定墓があります。
石窟の竪穴は、上人が入定された当寺のままに残されています。



庫裏・仏堂
明治の初めに火災により庫裏を焼失しました。
当時の住職に請われた仏海上人は観音寺に入り、同8年に庫裏を再建しました。
庫裏でありながら護摩壇が備えてある珍しい造りです。
東側には即身仏となられた仏海上人が安置されています。上人ゆかりの品なども展示されています。
庫裏は令和3年7月に村上市の歴史的風致形成建造物に指定されましたが、建築より150年近くが経過し、痛みも多くなっております。
毎月、千手観音菩薩の日である17日と18日に護摩祈祷が行われています。



仁王門
左右に大きな金剛力士像を安置した仁王門です。
幾度か改修されていますが古材が使用され、往時の姿をとどめていることから、令和元年7月に村上市の歴史的風致形成建造物に指定されました。
文久3年の棟札が見つかっています。



振袖地蔵

境内の東側に4体の地蔵菩薩が祀られています。
その中で右端が振り袖地蔵と呼ばれていて、とある逸話が語り継がれているお地蔵様です。
全ての人々を苦悩から救い、お守りくださるのがお地蔵様です。どうぞ皆様もお参りください。
振袖地蔵の逸話
昔、一人の六部が青森の恐山に参拝の為に立ち寄った。
六部は橋のたもとの切り株に腰を降ろしているうちに、いつの間にか居眠りを始めた。やがて深い眠りに陥ると夢うつつの中で、山のデコボコ道を一台の車が走ってきて六部の前に停まった。
驚いて顔を上げると、何とそれは地獄絵図の中から抜け出したような火の車だった。恐る恐る見上げると、車の上には若い娘が乗せられている。
「お前さん、その姿はどうした訳か?」 と訪ねたところ
「私は病のために死んで冥土へ参りましたが、私には何の罪と過ちもございません。ただ私の親達が心がけよろしからず、強欲非道の振る舞いにて、あまたの人を苦しめ悩ました為に私が地獄の苦しみを受けているのです」

「そなたの国は何処で、名は何という者か?」 と尋ねると
「私は越後の国、村上城下鍛冶町の奥村喜助の一人娘でアヤと申します。私を不憫と思し召したら越後の国の村上城下へお出の折がございましたら、是非とも私の家へお立ち寄りになり、事の次第を物語り、心を改め非道な行いをなさらぬよう両親をお諭しいただきたい。また、私を救うために御供養をお願いするとお伝え下さいますように」
涙ながらに物語る娘の話を聞いた六部は
「私はいづれ越後路を廻るであろう、しかし娑婆の人間というものは疑い深いもの、故に私がお前の話を伝えてもよもや信じてはくれまい、その時はあきらめてくれよ」
「それではこれを証拠としてお持ち下さい」と娘は着物の片袖をビリビリ引き裂き六部に渡すと、幾度となく頭を下げて、その姿はかき消す如く見えなくなった。

それから幾許もなく、かの六部は越後村上・奥村家の門前にたどり着いた。
家の者に恐山の一部始終を話したが案の定信じようとするものは居なかった。しかし、証拠の片袖を取り出すと居合わせた親類一同の疑う余地もなく、不憫な娘の供養にと建立したのが振袖地蔵尊である。
花檎の老木

樹齢300年以上と言われる花凛の老木があり村上市の文化財に指定されています。
古来は薬として使われていたのではないでしょうか。
毎年秋には大きな実を付けます。
切支丹灯籠
観音寺の庭には幾つかの石塔があり、その中に逆さのハート型が刻まれた珍しい石塔と、人形が彫られた石塔があります。
一説には切支丹(キリシタン)灯籠といわれています。


古い絵馬額

観音寺に古くから伝わる金泥を施して描かれた絵馬です。
横60センチ、縦40センチほどの大きなもので、確かなことは分かりませんが、松平大和守直矩公に関するものではないかといわれています。